喪主ラ・2
29日の零時を少々過ぎた頃、電話が鳴ったので、おっと、死んだかと思って受話器をとったら、母の声が「お父ちゃんな、いま、死なはった」と、まるでトイレにでもいったような連絡であった。とはいえ動きがとれないので、京都にいる弟だけをタクシーで実家に走らせ、私と奥さま夫婦は翌日の昼過ぎに実家に駆けつけた。一応、斎藤美奈子さんの『冠婚葬祭のひみつ』(岩波新書)は読んでいたので、もう一度おさらいをして、持参もしたのだが、一部のデータ以外は殆ど役に立たなかった。というのも、斎藤さんの著書は現代の都会的葬儀の傾向が強いので、私のよう田舎者にはそぐわない点が多かったのである。(とはいえ役に立つところは極めて役にたったのだけど)この辺りをもう少しイメージを喚起させるために述べておくと、要するに金田一名探偵でも解決出来そうにもナイ、横溝正史的、因習の世界が錯綜しているのである。まず、隣組という戦中の「組」システムが厳然と生き残っている。そこへきて、宗派の違いがあって、これが法華経とキリスト教ならまだワカリヤスイのだが、浄土宗と浄土真宗(本願寺派)ときているので、微妙なずれがあるのだ。さらに我が父はそこいらを仕切っていた(つまり常に葬儀委員長を務めていた)ので、その本人が死んだワケで、二代目の弟子すじにあたる親族のひとりが委員長となって、これを統括していく。そこに葬儀社が加わる。さらに一言居士が集まる。おまけにかつて隣組で、父と深い親交のあった弟分が広島からやってきたのだが、このひとが冠婚葬祭会社を経営しているときている。ここに母親の思惑が重なる。で、私が喪主と。いやもう、指揮官の苦労や如何にである。婚姻なれば、数ヶ月前から準備が出来るが、とにかく遺体があるもんだから、事は急を要し、即日に仮通夜、翌日は通夜、翌々日が告別式となる。仮通夜は自宅だが、通夜と告別式は、檀家なので、菩提寺である小さなお寺でとなる。ここで、私の方針①、私の関係者には報せないこと。あちこちからの生花や弔電や、はてまた関西からゆかりのひとが弔問されると大混乱になってしまう。ということで、さて、第1ラウンドは、葬儀の段取りの相談から始まる。ここで、私はたいへんオモシロイことに気づいて、ああこれなら喪主も喪主ラ(モスラのつもり)も何でもこいだなという気になる。それはまた明日のお楽しみ。
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