無料ブログはココログ

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

2009年4月

2009年4月26日 (日)

死即生生即死

『死とは何か』(池田晶子・著)を読了。簡潔にのべれば、彼女の「死」についての論理はこうである。一人称の死は経験出来ない、故にその死を語ることは不可能である。二人称の死は親しき者の死であって、想念(思い出といってもいい)である。然るに、これが死であるということはいえない。三人称の死は現象であって(二人称もそうなのだが)死してそこにあるのは死体であって「死そのもの」ではナイ。よって死というものは「存在」しない。存在しないものを恐れても仕方がない。カント派の哲学らしい考え方だと思う。私の考えは少々違う。これまた簡潔に述べれば、ひとは生きていると同時に死んでいると考えていいように思う。オギャーと生まれた時から生とともに死が始まる。私は現在生きているが、それは刻一刻と死んでいる。で生が終わる(滅する)とともに死も終わる。これを生即死死即生という。従って彼女のいうように死は観えないものではなく、いまここに現存するものである。それを識知出来るのは動物の中でも人間だけである。生と死は同一矛盾なのだというのが私の考えだ。私は最近、実父の「いわゆる死」に遭遇し、遺体やお骨を観たが、そのいずれにも死というものを表象出来なかった。何故なら死もまた終わっていたからに違いない。とはいえ、私は葬式をはじめとするセレモニーや葬式仏教の仕来りを非難するものではナイ。現在、ひとの死をもっともコトバとして認識し得るものはそういう中国仏教から発展した祖先供養しかナイからだ。それはそれで合理的であると考えている。浄土真宗も親鸞仏教からははるかに遠ざかってしまったが、それは現在の仏教が釈迦仏教とまるで無関係になったのと同様のことだと思う。宗教という共同幻想とその権力構造のヒエラルキーは、「死」とは何の関係もナイものだ。死は最も身近な生と共にしか存在しない。かつ空間的には個的に在りながら、関係の中に在り、また時間的には無常であるとした釈尊の教えに共感する。私自身のコトバでいえば、生もまた表現なら死もまた表現である。(もちろん、ココロの表出が即表現となるワケではナイ。そこには純粋な疎外が横たわっている。その疎外に反抗し続けること、それ即ちまた表現である)

奇しくも

昨日は想流私塾第14期生のオーディションだったんですが、奇しくも尼崎脱線事故から4年目で、電車に乗っていても、アナウンスや窓の外で慰霊祭。アイホールの表の公演でも慰霊祭で、ギター生演奏で鎮魂歌を歌ってましたねえ。それが聞こえてくる会場でオーディションであります。今期は11人。さあ、何人粘るかなあ。今期は20代と30代でかたまってしまいました。遊びたい、遊べる年頃なのにねえ。戯曲なんてのは、たしかに若い時の感性も必要ですが、これは実年齢とはあまり関係ナイんです。池田晶子さんではないけれど、これから塾生はじぶんで「考える」という作業を1年ばかりやることになります。私の塾は、それが厳しいのでございます。義務教育ではナイので、教える→学ぶてな具合にはいきません。私のやることは「私はこう考える」と述べるだけ。極まった特徴としては、質問の類は御法度で、そんなものはじぶんで考えなさいとだけしかいわれません。だいたい、ひとからいわれて納得したものなんてのはすぐ忘れます。ほんとうに身につくのはじぶんでみつけてきたことだけてす。私ん塾はそういうところでおます。それがもう14年めになりますか。ハヤッ。

ひさしぶりになるが

池田晶子さんの『死とは何か』(毎日新聞社)、で、よくもまあ同じ内容で、さまざまな出版社の雑誌に書いて原稿料を稼いだもんだなあと冗談抜きで感服しております。とはいえ故人であります彼女の持ち味は、文中になんや知らんひとの名前を入れないということ。これ、インテリのどなたさんも最新のアメリカの哲学者○○によるととかやるのよね。香山リカせんせなんかはその最たるもので、何処ぞかの精神医学者の能書きが必ずはいってるもんな。ですからそのぶんはエライなと思いますわ。で、基本的には独我論で、死についてはハイデガーなんですが、全体としてはカントなんだなあと、無学な私が持った感想であります。依って、埴谷雄高論なんか書いてはるし、対談とかしてはっても合点がいくのであります。そりゃあ、おいおいそれを拡張するかと思うようなところも多々あるんですが、また論点論理に矛盾もけっこうあるような気がするのですが、それがなければ発展もなかったろうでしょうから、そこはそれほど突っ込みを入れるべきではナイ。まだ読み切っていないし、もう一冊『私とは何か』もあるので、またつづきはそのときに。

2009年4月20日 (月)

劇評『顔を見ないと忘れる』

演劇ユニット・昼の月公演。作・演出鈴江俊郎、出演・二口大学、押谷裕子。於愛知県芸術劇場小ホール。4月19日4時。囚人と、面接に来る妻の話。スジにおいて、鈴江氏には囚人面接の現在に何かいいたいことがあるのだろうが、それが本編に書き込めていないまま、出演者両人のモノローグ説明ですましているところは、彼らしくナイ楽ちんな書き方じゃないかな。いろいろと観客へのサービスばかりが目立って、鈴江氏らしくもナイ、そこまで媚びなくてもいいではありませんか。ヌケとドウサにおいて、それが演出作法なのか、戦略なのか、まくしたてるようなせりふはまだ昨今流行りと看過出来るが、何を語るのも同じ調子でやられるとなると、1時間の短い芝居でも厭きてくる。囚人面接の時間のリアルティなど、どうにでもなるんだから、数回に分けての面接にしたてるより、一回限りにしておくべきだった。数回面接するのだが、妻の衣装を変える時間がナイので、経過がみえない。ここは、出演者の衣装くらい変える時間をとって、いま少し落ち着いて芝居に臨んではどうかと、のんびり派の私などは考えるのだが。1時間20分くらいの芝居にしてさ、いくらなんでも慌て過ぎ。喋ってる内容はどうでもいいことばっかなんだし。(それがイカンとはいいませんが)どうでもいいことを、じっくり聞かせるってのもいいじゃないですか。

2009年4月19日 (日)

ムーミン谷の春

まだ公開中なのだが、『おくりびと』がDVDになった。劇場で観ていない奥さまの要望でレンタルしてきた。私は二度目なので、視点を変えて、外国映画を観るように観た。もちろん、アカデミー外国語映画賞を受賞したゆえにだ。すると、なるほど、作りすぎではないかと思われたところも、割合に腑に落ちて観ることが出来た。ふーん、そんなもんなんだ。現在、中陰の実父も、ある程度私が(髭をあたったり、着替えさせて手を組ませたりくらい)納棺の儀式をやってもよかったかと反省したが、しかし、私のような不心得者、無覚悟の者がやるべきことではないなと、取り下げた。・・・池田晶子さんの「最後」の新刊二冊をネット購入した『私とは何か』と『死とは何か』である。版元は違うが、装丁は同じにしてある。いずれも副題に「さて死んだのは誰なのか」という彼女の墓碑銘がつく。べつに「私」や「死」についての答えが欲しいワケではナイ。気鋭急逝の哲学者が、それらとどう格闘したかが読みたいと思っただけである。・・・専ら最近の私の稚拙な脳は、そちらのほうと、私自身が書くべき(書けるような)小説とは何かについて奔走している。小説においては私は56歳にしての新人で売れない作家の一人でしかナイ。私はかつて読んだトーベ・ヤンソンの『ムーミン谷の冬』を憶い出す。ものみなすべてが眠る冬にひとり起きている、という、あの辺りの文脈が過っていく。ムーミン谷もいまは春だろうか。

2009年4月16日 (木)

ブロードウェイという道

これも観損ねた映画なのだが、DVDが出たのでさっそく借りてきた。『ブロードウェイ・ブロードウェイ』、いわずと知れた『コーラスライン』リバイバル(再演)のオーディションドキュメンタリーである。たしか3000人の応募者から16名を選出するそうで、私はもちろん、1975年から90年まで6137(6157だったかも)ステージをロングランした舞台も、再演(こっちは2006年10月から2008年8月までの759ステージだったというから、厳しいもんだなあ)のほうも観ていない。(映画版は観ているんだけど)で、実に編集が上手くて、オーディションでの男優の演技のシーンで、思わず落涙してしまったほどだ。ところが、そのアト、審査している演出家もまた眼鏡をはずして涙を拭き「泣いたのは30年ぶりだ。まさかオーディションで泣くとは」と映画は続くのである。なんつうか、ココロ打つ演技というのに国境はないなと、しみじみ感心した。というか、映画のヌケが良かったせいもあるんだろうけど、たしかにその男優は他の同じ役の同じ部分のせりふを語っている応募男優より、イイということはワカルのである。(つまりその程度の眼力は持ってると自慢したいワケ)いやもう、90分入れ込んでしまって、おではこっちのほうのがいいと思う、なんて競争しているライバルたちを勝手に選択審査したりして、そっちに決まると、おっ、やっぱりなんて、もうバカ丸出しである。・・・米原万里さんの『打ちのめされるようなすごい本』読了。打ちのめされました。『演劇学の教科書』うーん、なんかややこしい難しいこといってんだけど(いわゆるポスト構造主義に影響されてんでしょ)いってる内容は特に瞠目するほどでなし、いい尽くされて古くなったものを、新しい包装紙で包みなおした感じかな。米原万里さんのコトバを借りるなら「子供が夢中で読んでくれなくては教科書ではない」です。 

2009年4月15日 (水)

パンツをはかせ過ぎ

『演劇学の教科書』は二段組で600ページをこえるのだが、どうしてフランス人というのは、こういうもったいぶった作文をするのだろうか。(いい換えれば持って回った表現ですね)こんなもの一段の新書でやっつけられるのではないかと思ってしまう。おまけにワカラナイコトバが出てくる。「演戯」などはその最たるもので「演技」というコトバは登場しない。これは戯曲を演じるという意味なのだろうか。日本語訳になっていないのが「ドラマトゥルク」というもので、これは何かの役割らしいのだが、舞台監督でもナイ。偶然、CDで桂文珍さんの『愛宕山』を聞いていて、適訳を思いついた。「太鼓持ち」である。こういうふうに置き換えると、あまり支障なく読める。なるほど、そういう役割の人間が演劇現場に一人いてくれるとありがたい。で、エクリクチュールは書きコトバだったよなと、池田晴彦氏の『構造主義科学論の冒険』を取り出したが最後、またまた関係ナイところ(アインシュタインと量子力学のところだが)を座り込んで読んでしまった。こういうことを一日続けられればいいのだが、あいにく視力が持たない。ミオピン(調節機能改善点眼剤)さしつつ、だましだましで2時間かなあ。とにかく『演劇学の教科書』の悪文については、訳者は国語の教科書を先に読んだほうがいのではないか。などと、自分の頭の悪さはいつもどおり棚上げして、思うのである。

2009年4月14日 (火)

白骨の謎

どうしてもひっかかるので、照明家に電話してみた。収骨所で観た実父のお骨の蛍光発色のことについてである。私は、何かあの収骨室のライトが骨の白色の波長に影響を与えているのではないかと思ったのだ。で、照明家は、そういう照明はあるにはあるが、程度のことで、アトは熱、カルシウムと燐、などに言及してしばらく話をしたが、焼かれた直後で、周囲の鉄板には直接触ってはいけないと注意されていたので、お骨も熱かったはずである。この熱がカルシウムと燐の波長に影響を与えた結果ではないかという結論であった。まあ、それだけのことなんだけど、もう少し思弁的な思考も頭を駆け巡ったことは否めない。安置室から搬送された遺体は〔死〕んでいるのだが、肉体は肉体であってパッと消えたワケではナイ。それも、〔死〕そうして焼かれたお骨も〔死〕の姿である。明日に紅顔、夕に白骨とはいうが、人間の死という概念についてはやはり釈尊がもっとも早く言及しているのではないかと思えた。いわゆる「無常」である。釈迦仏教では、あの世はナイ。「滅」ということになる。従って釈尊の死も入滅と称される。これによって、『般若心経』の論理も際立って来るのだが、では「私」とは何か。釈迦思想は唯物論的弁証法においての実存主義だが、「私」というものを「関係」の中に置いてそこで消滅させてしまう。私はかなり根をつめて考え、「私は世界の表現であり世界は私の表現である」という自身の表現論の命題にやはり帰着した。この「私」の言説が時系列との座標にあるとき、祖先というDNAの脈々とした螺旋構造になって、釈尊のいう共時的関係(無常)から通時的関係(輪廻)へと向かうことになるが、脳が何故〔私〕という現存在を創ったのか、その根拠や理由や必要性は、未だ謎である。

2009年4月13日 (月)

阿呆は寝て待て

東京アゴラ劇場での『アチャコ』がようやく日曜日で12ステージを終えた。聞くところ、口コミで観客数はどんどん増えていったそうだ。終盤はけっこうな入りで、土日は五十席を満杯近くまでこぎ着けている。予想しなかった(といえど、あるかも知れないとは思っていたが)クレーム・トラブルもあったが、まんずクリアして、某出版社から雑誌掲載の依頼があるというオマケがついた(詳しくは正式に決まってから書く)。売文業としてはありがたいことである。ともかくは受注産業なので、(というか売り込みが下手、あるいは面倒臭い)入って来る仕事を寝て待つしかナイ。知ったかぶりと借り物の教養でしか仕事してないもんだから、贅沢はいわない。先達に感謝するのみである。『アチャコ』は次は大阪、名古屋だが、7月に飛ぶ。出演者のスケジュールの加減である。まあ、一息いれるのはいいんじゃナイの。次の私の作品は、横浜のほうで同じく7月半ばの『モダン太陽傳』になる。これも書き下ろしのカブキだ。続いて流山児楽塾の『めんどなさいばん』が8月。これは音楽劇と、右に左に書き分けて、書いた戯曲が5万本。(クレージーキャッツ『五万節』)で、現在は『せりふの時代』への短編戯曲執筆中。『演技論』のほうは、『演劇表現論』として、このコーナーでまとめていくつもりだ。とっ掛かりになる書籍が欲しくて、『演劇学の教科書』という訳書(これがぶっとい本)を3600円で購入。まあ、この程度なら知ったかぶりと借り物の教養でなんとかなりそう。かつて観た洋ピンが、大味だったのを憶い出しつつも嘯いている。(漢字読めなくてケッコー)

2009年4月11日 (土)

イリュージョン

木曜日はしさしぶりに劇場で映画を観る。一人千円の夫婦割引。もち、ネット予約。いや便利ですな。観たのは気にはなってた『ウォッチメン』。こないだ『ヘルボーイ』を観落としたので慌てて行ったのだけど、これ二時間半以上あったか、もう銭かねかけたB級映画。いやもう疲れたのなんの。途中でトイレにも行ったくらい。陳腐大作。これなら『レッドクリフ・Ⅱ』にでもすりゃあ良かったな。で、昨日は録画してあった『ヘキサゴン』三時間スペシャルで大笑いさせてもらって、これまた録画しておいた(いやあほんと便利)『仕事人2009』。スジ(台本)の大胆さがいいですよ。ああいうの、突っ込み入れ始めたら、源太の飯屋は何で瓦葺きなのみたいなことまでいわねばならない。時代劇は家元のいうように落語と一緒でイリュージョンであっていいのです。如何にほんとらしくみせるか。スジが読めても、ヌケ(演出)の美学がまた私のような大衆を酔わせるには最適。ドウサ(演技)のくささもけっこうざんす。敢えて注文つけるなら、如月ちゃんがあまりに脇すぎるのでは。映画のハズレをテレビで取り戻した二日間でした。

花雪風

桜の散る時節になった。今週を逃しては花見はなかろうと、奥さまと二人、缶ビール手に手に、つまみはから揚げ。近所の川辺の桜並木に陣取ったが、暑いんだなあ。そこで急遽、場所を変えて日影の地面に座り込んで桜を眺めていたが、今度は虫が這い上がって来る。いやあ、退散たいさん。ビューッと風が吹くが、この時、どういうワケか花は散らない。で、一寸待って、ザアッと吹き荒れる。妙な雰囲気のある時差だ。父が死んで、メールやら東京で(『アチャコ』を観に行ったので)御愁傷様とくるんだが、足と腰は疲れたが、心労というのはまったくナイ。母親も気楽にしていたが、こっちも気楽でいい。心配のタネが一つ減ったからだろう。今度、『せりふの時代』から短編戯曲の以来があったので、『葬儀委員長もまた死す』(『死刑執行人もまた死す』のパロディ)というタイトルで書くつもり。ひさしぶりの戯曲なので、プロットのアイデアが次から次へと頭に浮かぶ。やっぱり仕事がイチバンであります。

2009年4月 7日 (火)

喪主ラ・オシマイ

告別式の挨拶は善男善女250人の会葬者を前にして、これいっちまうかどうか、迷いに迷ったが、枕として「この度は北村○○お先に浄土へと旅立たさせていただきまして、御順番待ちの方々も大勢いらっしゃるでしょうが、これも御仏のおはからいとおゆるしを願う次第でございます」いやあ、ウケタなあ。笑い声をたてるワケにはいかないので、ハンカチで口を覆って俯くひとばかり。物書きの業だな。で、出棺。お山(火葬場のこと)は祖母の葬式以来50年ぶりだからもう、近未来的とさへ呼べるような施設で、最後のお別れが読経とともに行われ、1時間40分を5人ばかりが待機して、アトは一度帰宅して、焼けたという報せとともにまたお山。その骨の白いこと。蛍光色的白さなのには驚いた。で、ところどころ仄かに朱や青が滲んでいる。聞くと、出棺の際に詰めた花々の色移りだとか。芸術だなもう。お骨を自宅に持って帰って、そこで初七日を済まして、アトはお仕上げという打ち上げ。近所の料理屋の座敷に35人。ここでもお礼の挨拶。各人にお酌と労い。・・・要するにですな、私どもの地方はいうなればコミューン葬なのである。いま流行りの家族葬とかでもナイ、葬儀屋まかせのホール葬でもナイ。遺族、親族、隣組による相互扶助の葬儀で、私はこりゃあ、一種のアナーキズムだなと頷いた。クロポトキンからバクーニンと、彼等の想像した共同体(無政府主義)はここにちゃんと息づいているのである。この形態は面倒なところもあるが、残しておくべき制度だと思う。だいたい釈迦の思想と葬儀とは何の関係もなく、戒名にしても中国仏教と儒教の融合が日本に伝わって、さらに葬式仏教として仏寺の経済的基盤になっているだけで、浄土真宗や曹洞宗では戒名はナイのがふつうなのだが、もうみんな戒名である。(浄土真宗では法名という)そういうことはどうでもいいことなのだが、祖霊信仰と混在したこの日本共同体的仏教行事は、それがコミューン葬として続く限り、共同体の形態のひとつの終着を暗示しているように私には思える。私の最後の方針、香典返しは「故人の意志」により略す。これで、持ち出しも最小限になるはずで、経済的打撃も殆どナイはずである。ごくふつうの葬儀の相場が300万円といわれている現在、私の算盤では、帳尻は合っている。父は急死で間に合わなかったが、予め、故人の動産は現金にしておくほうがいい。遠くの親戚より近くの他人、近くの他人より手元の現金(げんなま)である。

2009年4月 6日 (月)

東京アチャコ事情

抹香臭いのは一回休みで、東京アゴラ小劇場は小林正和演出の『アチャコ』観劇。いやあ、自分の作品をいうのも何ですがね、オモシロかったですわ。しかしですね、このオモシロさはいまの若いひとにはワカランでしょう。ちょうど元塾生が3人来ていたんですが、「こんな芝居を観るのは初めてです」というてましたな。だいたいにして高橋鐡なんか知らんもんね。しかし小林演出は、まことに的確といいますか、シンプルでアホラシクてナンセンスで、もう芝居なんか観飽きたひとにはお薦めですな。私は腹を抱えて笑ってましたが、如何せん客が少ないのがもう、哀しいというか、哀愁ですね。水曜日はいまんところ予約1名だというとりましたなあ。一人でも観客がいる以上は演らんとアカンのが辛い。かつて、東京にいた元劇団員が、とある劇団での公演でのこと、上演時間になっても客が一人も来ないので、やるかやらんかどうするか、劇団会議になったそうですけど。アゴラ12ステージという無謀な公演も、いろいろなひとに助けられて、ただいま繰り広げられてか、どうか、まあ、やってますんで、よろしゅうに。

2009年4月 5日 (日)

喪主ラ・5

東京には午後に出立ということににしたので、つづき。・・・映画『おくりびと』のライブが目の当たりに展開されるのだが、だいたいの手順は同じでも、映画のようにはいかない。映画の場合はアングルや効果音などが入るから臨場感が違う。納棺はこの葬儀屋の場合、二人。隣組などは親族に交じって午前中から集合しているので、昼食の弁当を仕出屋から運んでもらう。この仕出屋さんも隣組の料理屋。男連中は粗飯料を地所と他所に分けて袋詰めしている。で、納棺。いざお寺へ。住職のお経が済んで、受付待合の設営から、生花、梻などの配列。これも順番がある。盛り籠が届く。配列。この盛り籠は通夜が終わるとバラされて、翌日の告別式のお供養として、会葬者に配られる。300袋を作るが、果物の類の盛り籠は三つばかり残される。これは、後々の弔問客と、お仕上げ(芝居でいえば打ち上げに該る)の宴席の出席者のお供養土産となる。さて、通夜は夜、7時からなので、弁当が出る。本堂での食事は禁止なので、いちいち自宅でそれぞれ食べる。5時半にお寺で作業開始なのだが、弁当のくるのが遅く、6時過ぎになる。もう弔問客は大勢来ている。お寺は夕照山西光寺というなかなかのネーミングなのだが、瀬田川縁にあって浜風が冷たい。まことに寒い。読経。喪主、遺族は、本堂の外に立って焼香者にお辞儀。これで腰が痛くなる。足も棒になる。で、また挨拶。寒いので簡単にすませる。通夜客が去ると、寝ずの番ということになるが、これは広島と弟が蒲団を本堂へ運んでの泊まり込み。広島はいろいろと「参考のために聞かせてもらいたいんじゃが」と最も口数が多かったので、まあ授業料の代わりですな。ちなみに広島の座右の銘は「口数の多いもんは仕事が出来ん」だそうで、苦笑してしまう。寝ずの番といっても、実際は火の番で、かつては蝋燭がきれないように、だったらしいが、いまは電気なので、線香の火に注意していればいい。この線香も巻きタイプで8時間ほどもつ。翌日の告別式は1時。集合が11時なのだが、やはり、簡単な弁当が出る。通夜と告別式の挨拶は、プロトタイプを葬儀屋が用意しているのだが、それではつまらないので、それを基本に頭の中で作りなおす。さて、一夜明けて、告別式となる。

2009年4月 4日 (土)

喪主ラ・4

隣組というのは戦中のシロモノだから、最近流入の多い滋賀県などはどうなっているのか。少なくとも私の実家周辺では、ほぼ強制的に組に入れられさせるか、新しい組を作るかするらしい。たとえばアパート一棟が一組になっていたりする。いまでは町名のなくなった元町というのが頭について元町○組といったふうになる。これが13~14組あって1組が10人前後である。(ちなみに実家は6組)この組み割を私の父は丁寧に図面にして残す作業をしているから、さすがに死ぬ前まで葬儀委員長だったほどのことはある。この他、寺社関係への支払い(お布施など)事細かに残してある。菩提寺は信徒に対しては一日3万円、他宗派に対しては一日7万円で場所を貸す。住職へのお礼は20万円。脇僧が10万円、他経費(初七日など)が幾種類かに分類されている。これを寺への納棺時に住職に納めるのも喪主の仕事だ。さて、仮通夜の挨拶。そんなことはいきなり本番で脚本の類のナイ仕事であるが、こういうところで喪主への評価が定まる。私は咄嗟に緋牡丹お竜さんでいくことにした。(以下↑は語尾が上がる)「そのままお控えくださいませ。私↑北村○○長男、○○↑と申します。本夕は仮通夜弔問のみなさまにたいしまして、ひとこと↑お礼↑述べさせて頂きます」てなのを声を張らずに、ボソボソといくのである。手の甲と親指を畳について、やや尻を上げ、まあテキヤである。これで仮通夜はオシマイ。次は翌日の納棺となるが、これは葬儀屋の分担。ここで『おくりびと』をライブで観られるというラッキーな事態となる。・・・明日は東京の『アチャコ』を観劇に出掛けますので、このつづきは明後日でございます。

2009年4月 3日 (金)

喪主ラ・3

葬儀というのは、故人が病院で死んだ場合、霊安室からの搬送から始まる。おおよその病院においては、長い安置は嫌がられる。父は(予想はされていたが)急死で、といっても、人間うまく出来ていて、死ぬ数時間前は脳内麻薬物質が分泌されるようで、数時間心地よく眠っての大往生であった。深夜であったので、ナースさんのほうも主治医のほうも対応がたいへんだったろうと思う。こういう場合に備えて、主治医への心付けは数万円程度しておいたほうがいい。(大金では受け取るほうも困惑されるので、3万円程度がいいかと思われる)受け取りにくそうな場合は「貧者の一灯」とでも添え書きしておくといい。搬送は葬儀屋に「搬送だけ」をとりあえず依頼する。父の場合朝の7時という病院の朝食時間にあたっていたので、ナースさんにはたいへん迷惑をかけた。よって「供養」として蜜柑をお礼に送ることにした。・・・さて、葬儀委員長、葬儀屋、喪主、母、広島の(以下広島とだけ記す)葬儀会社社長、その他数名で、段取り仕切り打ち合わせ。ここで、私が慌てないで(余裕すらあった)いられたのは、ある発見があったからだ。それは、この急を要する打ち合わせは小劇場演劇におけるスタッフ打ち合わせとソックリなのである。葬儀委員長を舞台監督であるとすれば、喪主は演出家というふうに理解すればいい。アトはスタッフ出演者である。主役のほうは死んでいるが、ここは母親と考えておく。まず日取りを決めるのに、イチバン最初に確認するところはお山(火葬場)とお寺の予約がとれるかどうかである。演劇においても会場の予約から始まるのと同じだ。ここが決まって日程としては当日仮通夜、翌日通夜、翌々日告別式の開始時刻を決める。これで大枠が決まる。次がスタッフ会議と同じ。葬儀屋の分担(丸投げするひともいるだろうが)から、省くものを決めて見積もりをとってもらう。隣組の付き合いなどがあるので、町内の店舗に頼めるぶんは葬儀屋の仕事から省く。葬儀屋に任せるのは、霊柩車の手配(ランクがある)祭壇の手配(これもランクがある)だが、これは写真でみせてくれるのだが、葬儀屋のほうで写真には演出が施されていて、本来はオプションであるものも飾ってあり、ここは注意して決めたほうがいい。で、見積もりはその場でとってくれる。およそ九十数万。これは相場であるのでOKする。お寺と火葬場関係に対しては、事前に母から葬儀委員長に幾ばくかの支度金が支払われている。端的にいうと、葬儀屋への支払いとスタッフなどの食事代以外は前金で渡してある。さて、この地方では、隣組の地域(約13組)を地所と称し、他を他所と称する。従って通夜と告別式の受付も「一般」「親族・関係者」ではなく「地所」「他所」の案内看板が立つことになる。ちなみに、私の奥さまの実家からの香典は「他所」扱いである。葬儀屋その他(うちの地方では、弔問客には地所のものに「粗飯代」が2千円、他所のものには300円、その場で供物を添えてバックされるシステムになっている)よって、これを紙袋に詰める作業も隣組の男子の仕事になる。女性はほぼ台所で、お茶とお菓子、母の話し相手、着付け、掃除などを分担しているが、ここで、対幻想は共同幻想に絡められる。どういうことかというと、「誰々何処ドコの嫁はよく働く、気がつく」などの評価がくだされるのである。委員長は祭壇に飾る盛り籠(お菓子か果物)の数合わせを考えてこれを親族などに割り振る。梻(シキビと称される。本来はシキミで、例の葉っぱだけの供え物で生花とは区別して、大は門前、小は仏前に供えられる)の分担も委員長が采配する。続けて、焼香の順番が母親とともに相談される。私は喪主なのでイチバン最初、そのアトは身の濃い順番となる(遺族、親族・・・というふうに)これがけっこう難物なのである。順番が決まったら葬儀屋にそれを渡して、当日マイクでの読み上げとなる。さて、舞台監督による、舞台スタッフと受付スタッフ、それぞれのタイムスケジュールが出ると一段落。ここで仮通夜であるが、喪主はここでも一部(父親の入会していた老人会)弔問者団体に対して挨拶がある。要するに喪主の主な仕事は「挨拶」なのである。

2009年4月 2日 (木)

喪主ラ・2

29日の零時を少々過ぎた頃、電話が鳴ったので、おっと、死んだかと思って受話器をとったら、母の声が「お父ちゃんな、いま、死なはった」と、まるでトイレにでもいったような連絡であった。とはいえ動きがとれないので、京都にいる弟だけをタクシーで実家に走らせ、私と奥さま夫婦は翌日の昼過ぎに実家に駆けつけた。一応、斎藤美奈子さんの『冠婚葬祭のひみつ』(岩波新書)は読んでいたので、もう一度おさらいをして、持参もしたのだが、一部のデータ以外は殆ど役に立たなかった。というのも、斎藤さんの著書は現代の都会的葬儀の傾向が強いので、私のよう田舎者にはそぐわない点が多かったのである。(とはいえ役に立つところは極めて役にたったのだけど)この辺りをもう少しイメージを喚起させるために述べておくと、要するに金田一名探偵でも解決出来そうにもナイ、横溝正史的、因習の世界が錯綜しているのである。まず、隣組という戦中の「組」システムが厳然と生き残っている。そこへきて、宗派の違いがあって、これが法華経とキリスト教ならまだワカリヤスイのだが、浄土宗と浄土真宗(本願寺派)ときているので、微妙なずれがあるのだ。さらに我が父はそこいらを仕切っていた(つまり常に葬儀委員長を務めていた)ので、その本人が死んだワケで、二代目の弟子すじにあたる親族のひとりが委員長となって、これを統括していく。そこに葬儀社が加わる。さらに一言居士が集まる。おまけにかつて隣組で、父と深い親交のあった弟分が広島からやってきたのだが、このひとが冠婚葬祭会社を経営しているときている。ここに母親の思惑が重なる。で、私が喪主と。いやもう、指揮官の苦労や如何にである。婚姻なれば、数ヶ月前から準備が出来るが、とにかく遺体があるもんだから、事は急を要し、即日に仮通夜、翌日は通夜、翌々日が告別式となる。仮通夜は自宅だが、通夜と告別式は、檀家なので、菩提寺である小さなお寺でとなる。ここで、私の方針①、私の関係者には報せないこと。あちこちからの生花や弔電や、はてまた関西からゆかりのひとが弔問されると大混乱になってしまう。ということで、さて、第1ラウンドは、葬儀の段取りの相談から始まる。ここで、私はたいへんオモシロイことに気づいて、ああこれなら喪主も喪主ラ(モスラのつもり)も何でもこいだなという気になる。それはまた明日のお楽しみ。

2009年4月 1日 (水)

喪主ラ・1

実父逝去につき、急遽実家(滋賀)にもどって、長男ゆえ、いきなり「喪主」をやらされた。仮通夜、通夜、告別式と、なかなかオモシロかった。いま鉛のようになったカラダで名古屋にもどった。父は急死であったが、私の関係者には一切報せなかった。もし、報せていたら大混乱だったろう。ここ数日のことについては、明日から書いていく。とりあえず、そういうことでしたので、また明日。

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »