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2009年3月10日 (火)

演技論メモ・前回のテーセー

ソクラテスがギリシャの哲人であることは間違いないが、プラトンの弟子はアリストテレスである。この間違いは実は二度目。なんで間違うかについては、要するにちょっとした勘違い程度のものなのだが、なんでちょっとした勘違いを二度もしてしまうのかについていえば、どちらでもどうでもいいからだったとしかいいようがナイ。私の本意は池田晴彦さんの論じる、固有名と指示対象の関係について異論を差し挟みたいだけなのだ。氏の論旨は簡単に結論をいうと「固有名の大半は指示対象など持たない」である。「アリストテレスという固有名は私にとって如何なる指示対象も持たない名辞である」何故ならば、アリストテレスを知っているひとが直示してくれない限り、アリストテレスという人名に対する知識はあっても、指示対象を識知は出来ない。それは位相として『罪と罰』のラスコリーニコフと同様だ、というんだけど、ほんとにそうかな、と疑ってるのである。(出典は『科学教の迷信』洋泉社)で、端的に、それ認めると、ソクラテスを演じる役者が舞台に登場しても、氏はそれをソクラテスと直示してもらわない限り、ソクラテスだと認めないことになる。つうことで、もちろん役者が演じているのだからソクラテス本人であるワケはナイのはアタリマエなのだけれど、たとえば、その役者が(脚本どおりに)芝居の途中から「みなさん、間違っておりました。私はソクラテスではなく、アリストテレスだったのです」と役どころを変化させたとしたら、なにをいってんだ、けっきょくお前は役者の三太郎じゃないか、ということをいうような観客がいるのか、いるワケナイじゃん、と、こう申して述べているのである。そんな客はいるなら落語の中だけだ。つまり私たちはソクラテスやアリストテレスやラスコリーニコフの実体を知らなくとも(識知出来なくとも)演じている者をソクラテスやアリストテレスやラスコリーニコフとして観ることは出来るし、それは、氏のいうように信念や直示可否の問題ではない。たとえ、ソクラテスが背広を着て登場しても、ソクラテスを演じている以上はその人物は舞台の上ではソクラテスである。そうして、観客がそれをソクラテスやアリストテレスやラスコリーニコフと認めるのは、両者の観念に同一性が含まれるからでもナイ。また、お約束といったものでもナイ。氏が表現(『罪と罰』は小説である)と日常を同じ土俵の上で語っているのが間違いだといっているのでもナイ。固有物、個体、というものを識知する場合、実体(指示対象)そのものなど問題ではなく、すでに他者的にも自己的にもそれは表現されたものに過ぎないということがいいたいのである。自然物であろうが人工の個物であろうが、コトバであろうが、表出=識知した瞬間、それは表現された物である。そこんところの氏との考え方の相違がいいたかっただけだ。

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