無料ブログはココログ

« モンタージュ | トップページ | 演技論メモ・前回のテーセー »

2009年3月10日 (火)

演技論メモ・ソクラテスを演ずるとは

池田晴彦さんの本を引っ張りだして(何故引っ張りだしたかというと、米原万里さんの『打ちのめされるようなすごい本』を読んでたら氏の本のことが書かれていたので)妄想に耽っていた。氏は「同一性」というコトバが好きなんだなあ。いや揶揄しているのではなく、氏の本は生まれて損した分の怨嗟がユーモアに転じた構造科学で面白いんですよ。私と考え方は違うけど、へその曲がり方が似てるんでしょ、たぶん。で、氏の構造主義科学でいくと、困ったことにソクラテスを芝居で役者が演じるということが不可能になってしまうのだ。というか、どんな役者がどんなふうに演じても、それはソクラテスではナイのである。何故ならソクラテスなんて「知ってるけど知らんもん」ね。知ってるけど知らんひとを役者が演じてそれを観客が観て、ソクラテスだなと認知(池田さんふうにいうと錯覚してしまう)には、演者と観客の主観にソクラテスというひとはこんなんだったろうという同一性の規則が働かなくてはならない。たとえ働いても、それが正しいかどうかの保証はナイということになる。しかし私の表現論(つうか、おでにいわせると)そんなものは微塵も必要ナイのだ。たとえば演者がソクラテスではなく、織田満作を演じるとしよう。織田満作というのは戯曲の作者がかってに創った人物である。もっと極端に「男1」でもいい。この場合、演者と観客のあいだには、織田満作や「男1」の同一性の了解などあるワケがナイ。ソクラテスも同じことである。ギリシャの哲学者でプラトンの弟子、という同一性も必要ナイ。何故なら、舞台のソクラテスは、〔表現〕された人物(いいかえると、イメージを具現化した人物)であればいいからだ。演者が不安なら、「私はソクラテスだ」というせりふをひとこといわせればイイ。池田主義になくて私の主義にあるものは〔表現〕という営為である。と、まあ、やっとそこまで氏の本を読んで、いつも腑に落ちないものが何なのかワカッタということですわ。客観というものは存在するものではナイ。それは生ずるように錯覚するものである。その辺りは氏と似たような見解なのだが、氏はそれを「現象」といい、私は〔表現〕と認識している違いがあるだけだ。だが、この違いは、風通しの風速にするとずいぶんの差があるように思う。氏にとって外部世界は独我的「現象」だが、私にとっては〔表現〕であるに過ぎないとしてもだ。曰く、表現は如何なるソクラテスも舞台に演じ立たせてみせる。(無論、評価はべつものよ) 

« モンタージュ | トップページ | 演技論メモ・前回のテーセー »

演劇」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/50047502

この記事へのトラックバック一覧です: 演技論メモ・ソクラテスを演ずるとは:

« モンタージュ | トップページ | 演技論メモ・前回のテーセー »