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2009年3月 9日 (月)

モンタージュ

先週の『必殺2009』。老父が殺された息子の現場に置かれた仮の墓石のところで、懐から息子の生まれたときにとった手形を出す。アングルは背中越しに手形からさらに迫って手形の紙片。せりふはあるが、なくてもここは充分心中がワカル。逆にせりふは不要と思えるが、それは、視聴者へのサービスと、演者への気遣いだ。ここで老父も敵方に殺されないと話にならない。それくらいは同業者として先がワカル。だから、殺され方のプロットが問題になる。囲まれるのか、背中から斬られるのか、イチバンいいのは、手形の紙片に血飛沫だけが飛ぶという予想なんだが、これが、そのとおり。うん、イケテル。この一連のヌケとドウサを映像だけで表現するというのががエイゼンシュテインのいうモンタージュ理論である。映像そのものにおいてはエイゼンシュテインのモンタージュ論は間違ってはいないと思う。ただ、それを言語活動にまで拡張して理屈をいったところには誤謬がある。映像は映像、コトバはコトバなんだから。そこで、このモンタージュを演劇に出来るかと考えてみた。一応、演出においても戯曲においても可能である、というのが結論だが、可能であるというのと必要であるというのは違う。これは単に作劇術(ドラマツルギー)の問題。では演劇ではどう創ればいいのか。そんなことを考えて、べつにどうこうするワケではナイのだが、これは悲しい性か、業というところだろう。口を開けば愚痴になる、そんな毎日で、ついついブログともご無沙汰になる。やる気も気力も何もナイのだが、どうしても脳は芝居のことを考える。ブレヒトの錯誤にも触れようかと思ったが、ここで気力はキレる。

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