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2009年3月

2009年3月28日 (土)

昨日のこと

『チョコレート・ファイター』を観る。タイ映画。あの『マッハ』などの監督。主役の少女は1984年生まれだから25歳なのだが、十代にしかみえない。顔だちが端正で知的なので、ロリ傾向はナイ。逸材だとは思うが、ミシェル・ヨーやチャン・ツィイーに比べるとまだまだ。それでも今後の期待は大きい。もう少し優秀なアクション監督を招聘して、本格的にやるほうがいい。夜はDVD。『クリミナル・マインド』のほうはシーズンⅡが出たが、いい作品を見落としてたなとシーズンⅠから。口コミが効いているのか、貸し出し中が多い。もう一作、岩松了さんの『たみおのしあわせ』ダスティン・ホフマンの『卒業』にケビン・コスナーの『フィールド・オブ・ドリームス』と、ラストシーンはこれでもかの大パクリ。カメラは殆どフィックスで、やっぱり演劇畑のひとには、そのほうが演出しやすいんだろうなあ。これはこれで小津さんの大パクリ。雰囲気もそんな調子だが、退屈させないところはさすがの流石。ただし、いまさらケータイを突出して扱うのはどうかなあ。主人公の二人が囲碁を打てることになっているが、ほんとに打てるひとが観たら、ちょっと変に思うだろう。(私ゃ初段です)

2009年3月26日 (木)

映画情報『スラムドッグ ミリオネア

このアカデミー賞作品が何故つまらなかったのか、ちょっとばかり考えた。で、要するにこの作品のテーマらしきものが、なんだタダのアメリカンドリームではないかと、自分なりに答えを出した。つまり「幸せは金と女」。もう少しいえば「巨万の富と美人」を手に入れるという、その主題に共感出来なかったのだ。たしかに映画はインド貧民街や少年少女の職業乞食を描く。とはいえ、インドのカースト制には何も触れない。何故、貧しいのかという疑問に問いかけも踏み込みもナイ。で、悪人は悪人でステロタイプに描かれ、そういう社会ではしたたかに生きるしかナイよというのだが、まあ、これをたくましく生きると善意に解釈しても、近年はインド市場がたくましいんだから、そのあたりにも触れていない、主人公の生きざまはまるで「やらせ」である。だから見終わってから、まあ勝手に幸せになって頂戴と、他人ごとになるのだ。ヒロインに対する一途な思いなんて、ふつう恋をすればあんなもんじゃないのかな。特にどうってこたねえな。この程度の日本映画はありそうな気がすんだけどなあ。

2009年3月25日 (水)

予想に違わぬ

WBCは私自身も頭の中でこうなったらオモシロイだろうなというシナリオを書いていた。まず日本が先取点、でシーソゲームになって、土壇場で韓国が追いついて延長。運良くイチローに打順。ここで引き離す。その裏ダルビッシュが三振に討ち取って幕。こう書くとウソだろ、アトヅケじゃないかと思われるのはアタリマエなんだが、イメージとして、日本選手たちの歓喜の顔がグランドに溢れる、しか浮かばなかったので、イチバン面白そうな本を書いたワケなのだが、イチローは9回でもう最後の出番だと思っていたところ、10回表ツーアウトから打順が巡ってきたのに、こっちもびっくりした。内山はおそらく打つだろうと確信めいて思っていた。1-0で負けた韓国戦の事前インタビューで、他の選手は韓国チームの分析やら投手の攻略法などを語っていたのだが、内山だけが御託なしの単純な頑張ります程度で、その辺りから注目していたが、そのアトの試合で、この選手はえらく野球勘のいい選手だなあという感想を持ったからだ。で、そうなった。イチローは、ともかくファールを連発しているから、何か好球を待っているなと読んだりしたけど、談話では、けっこうバラバラでいろんなことを考えていたらしい(視聴率のことまでその中に入っていたのには笑ったワ)。いやあそれにしても心臓がバクバクして、4時からの呉智英さんとの対談に影響しないか心配だった。で、散髪と洗髪でココロ落ち着けて、大須の居酒屋へ。開店時間の1時間前に開けてもらってのお座敷対談。呉さんは、予想していたよりうんとパトスとロゴスのバランスのいいひとで、対談慣れというのもあり、企画側と知り合いだったらしく、なにより養命酒をちびちびとしか呑めなかったのに(デビューすぐの本にはそう書いてある)、酒もけっこうイケルようになってらっしゃって、元気であるというのが幸いしてずいぶん楽しい対談になった。酒は対談が終わってからの注文だが、私も珍しく生グラスを3杯呑んだ。記憶に残ったのは、呉さんは鯛のあら煮を注文されたのだが、魚を食うのが上手いということである。そういうひとにはなんとはなくだが、好感をもってしまう。で、本日、『ぶらい、舞子』をアマゾンから贈っておいた。

2009年3月23日 (月)

よくできました

誰が書いているのか知らないが、WBCのシナリオほどよく出来ているドラマはないな。そう思いながら、おそらく決勝戦は日韓戦になるんじゃないかなどと、うっすらでも面白いシナリオを描いていた私は自嘲するしかナイ。いっそ二カ国語で、韓国側の中継放送も同時に聞きたいくらいだ。空振りの三振をしても、「いまのはいい振りだったですから次の打席が楽しみになってきましたね」などと、ちょっと選手を甘やかしすぎのキライはあるが、イチローくらいになると、ともかく打つ、守る、走る、何かやっておけばそれで絵になる。それがナイときはベンチの彼の表情をヌケばいいのだから、おそらくカメラのうち一台はイチロー専用のがあるに違いない。・・・いま、売るアテのナイ小説を3本ばかり同時に書いているのだが、そのうちの一本が書いていてオモシロクなってきた。この感触だな。戯曲執筆にあって小説執筆にナイ、指先が踊るような書きごたえ。そうなるともう、ビデオを観ていても、頭の中は書いてる小説のプロットを模索してたりする。そのせいか、今日観た仏蘭西映画の『スマイルコレクター』というのは何の話なんだか、よくワカラナカッタ。で、終わると即座に奥さまが「これ、どういう話なのか説明して」。ワカンネエよ。本職にもワカンネエ。ナントカ脚本賞受賞作とあったんで借りてきたんだけど、このDVDビデオはハズレだったなあ。編集が拙いなあというのは気になってたんだけどねえ。だいたい刑事と犯人の顔がよく似ていて(ヒロインもそういうふう)、日本人の顔と中国人の顔を外人は区別出来ないというけど、オレっちも米国以外はけっこう惑わされるんだなあ。・・・精華小劇場の集団劇は記録的動員で千秋楽だったそうで、よかったよかった。狂言の出来も尻上がりに良くなっていったそうだから、初日はみんなテンション上がってたんだな。(と、こういうふうにテンションというのは使うのが正しい。つまり、不要な緊張感である)・・・明日は夕方から、呉智英さんと対談だから、散髪くらいしとかなくっちゃな。

2009年3月22日 (日)

連休最後の日

三重テレビが関西テレビ制作の『怪傑えみちゃんねる』を一~二週遅れで放映しているのをたいてい録画して観ている。本日は、『キイナ・・』の最終回(これも録画)と連続で観る。それだけで、もう動体視力にダメージが大きく、ちょっと気分が悪くなる。演出家でなくて良かったなあ。演出なんか仕事でやってたぶんには、これでは仕事にならない。とはいえ書けばやはり二時間くらいで首が痛みだし、寝る前の鎮痛剤(ロキソニン)はかかせない。五十六年の歳月はカラダにこういう仕打ちをしてくるんだなと、それでもしかし、若い頃にもう一度もどりたいとは思わない。この連休、寝酒はやめたので、朝はスッキリしている。昼にビールを二缶ほど飲むと、それでもう、けっこうな酔いである。本日もそれ。パスタはトマト。晩飯は連休最後だということで、ちょっと贅沢にいつもの中華屋。ここでもグラスビールと紹興酒をロックで二杯。飲んで食って寝て、盆と正月だな。と、『アチャコ』のプロデューサー土居と演出の小林がひょっこり現れる。ロフトに衣装捜しだそうだ。特製カツ丼をお薦めして、ザーサイくらいは奢る。そういや、もう一週間ちょっとで東京公演(アゴラ小劇場)の幕開きなんだ。早えなあ、もうすぐ四月か。そうそう、『えみちゃんねる』の字幕に「もて遊ぶ」なんて出てたけど、そういうのみると、ケッ、莫迦が多いわと楽しくなる。四月バカにはまだちと早いぜ。

2009年3月20日 (金)

テレビの日

朝からWBCである。野球(スポーツ全般だが)はいいよね、勝つか負けるかハッキリするから(負けてもそれなりに)スッキリとする。演劇はいいのか悪いのか、私がつまらなく思ってもいいっていうのが多いのは数多あるし、その逆も数多ではナイが少しはある。その狂言のナニがイカンのか判然としないのでいつも隔靴掻痒である。で、昼寝。晩飯。そのアトは『ぐるナイ』の「ゴチ」を観る。こういう番組は嫌うひともいるんだろうな。世界で10億の人間が飢えているのに、ということで。しかし、逆にいえば、こういう番組が続いている以上は日本経済はまだ寝たきりではなく通院程度だろうと思える。そのアトは少々休んで(何故、動体視力が疲労するのか理由がワカッタ。現在服用しているクスリの副作用で、眼球の動きが通常より少し遅くなるのだそうだ。つまり動いているものを観るのは眼に負担をかけていることになるらしい)『仕事人2009』だ。もう1クールの延長が決まったので、物語も深みを増してきた。勧善懲悪でもなく人情劇でもナイ時代劇(正確には時代劇ではナイのかも知れないが)として、テレビ映画の歴史に残ると思う。(少数派の意見ですが)そろそろ、仕事人の過去(何故、仕事人になったのか)なんかを一話くらい入れると面白いとこれまた少数派の希望。そのアトはニュースで野球。イチローの談話。「同じ相手に三度も続けて負けるワケにはいかない。プライドとして」だったか。そうよ、プライドを持ってもらいたいよ、演劇人には。人生を棒に振って、裏街道の渡世を生きる者としてよ。テレビ芸人とは違うんだくらいのね。(差別しろといってるのではナイ)

2009年3月19日 (木)

今日一日

昨夜というか深夜、どうも具合がよろしくナイ。鬱病の症状でなくて血圧かなと計測すると、これが155-115である。上も下もひでえもんだ。上のクスリ(ニューロタン)と下のβ-ブロッカーを服用。1時間ほどして、130-90まで下がったので、ビールを一缶飲んだら、これが激しい悪酔い。蒲団の中で唸ることしきり。奥さまを揺り起こして、ヘルプ。背中などさすってもらって、そのまま寝入る。で、5時半に早朝覚醒。しばらく起きていて、睡眠再挑戦、なんとか10時半まで寝ていられた。11時に通信を「光」に変えるので、その工事人が来る。こいつが極めていい加減なヤツ。うちはマンションがコミファ光に入ったので、それに変換したのだが、ありゃあたいへんだぜ。他のフレッツでも同じだろうけど、営業をしているところとサポートをしているところと、工事しているところと、そのアトのインターネット通信設定の業者がまったく違うものだから、タテの連絡が極めて錯綜。2時に設定業者が来るてなことになってたのに、工事が終わった11時半に別の業者が来る。(だいたいここまでの経緯が複雑なので、とても書けない)単純にいえば、コミファの下請け業者がいろいろとあるということかな。とはいえ、この業者はアタリ。ルーター(無線通信装置)が使えない機種であるのを(どうも、工事人がルーターを観て首をひねってたワケだ。この時点でわかっていながらトンズラしやがったのだ)、わざわざ、手持ちのを無料提供してくれた。そのアト、パスワードなどの難関を抜けて、2時間かかってやっと開通。よくやってくれたというので、奥さまは、アマゾンカードを心付けに渡して、ほっと一息。それから昼飯だったから2時。で、2時からの業者には「来んでもエエ」という電話を入れてパスタを喰う。今日はカルボナーラ。(ついでにいうと、うちは、奥さまの休日は昼はパスタ。もちろん、私が好物だからである。毎日でも飽きない)何だか一仕事した感触で、WBCは観たが、そのアトは休憩して回転寿司で夕食。入った時間が良くてテーブル席がとれたのだが、すぐに大混雑。店員が少ないのかフル回転している。まさに回転寿司。で、勘定の支払いになって、あきらかにレジ打ちミス。生中ビール分くらいの請求で、さらに割引券も頂戴して、慌てて逃げる。寿司代は浮いたな。いいのか悪いのか、そんな一日。

2009年3月18日 (水)

ここ数日

3月16日想流私塾の最終講義。アトは卒塾公演。ついつい延長してレクチャーをしてしまう。思えば、これでずいぶんと疲れたんだろうなあ。その前日にはアートピアホールに『未来の演劇人に贈るトップランナーからのメッセージ』という質疑応答式のトークに観客で出向いてるからなあ。これはビギナー相手のイベントだけど、頭数が少ないだろうし、トップランナーのみなさんとは何れも面識があったので、客席に座ってた。とはいえかなり動体視力を使ったらしく、この日からグルグルとはしていたのだけど。で、17日は大阪精華小劇場『中島陸郎を演劇する』(精華演劇祭のテーマは中島陸郎没後10年に捧ぐ)を観劇、なのだが、ともかく伊丹から午前中に移動して、3時になんばのホテルにチェック・イン、ここから開演の7時と、待ち時間が長すぎてこれまた疲れる。ゲネプロを30分ほど観られたので、本番はチラチラと舞台を観て、アトは目を閉じてせりふを聞いているだけにする。しかし、聴覚は視覚の代用もするので、けっこうこれも疲れる。40人余りの集団劇なので、どうしても各自が似たようなキャラになって、手っとり早くいえば平板になる。それを考慮しての舞台美術であるのだろうけど、私は、あの舞台美術はあまり成功していないのではないかと思う。単に私が金属が好きでないだけなのかも知れないけど。(ジャングルジムを工事用鉄管で組み立てたもの)ともかくちょっとヘトヘトになった。で、寝酒はやめるつもりだったのだけど、ビールを一缶飲んで、けっきょく早朝覚醒。出勤ラッシュを避けて大阪を出たものの、かなり鬱病が露呈してきて、フラフラと、希死感もかなり強い。ただし、死ぬ気力というのもナイ。フラストレーションだけが膨張している感じ。気分が悪くて、ほうほうの体でラーメン作って、昼飯にする。で、このブログの、アカウントとパスワードが変更になるので、それでまた四苦八苦。ぼんやりとWBCを観ているが、たぶん、日本の負けだろう。相手は韓国。イチローは叩かれるだろうなあ。

2009年3月14日 (土)

ジケイ

久生十蘭『金狼』を読み終える。まるで川島旦那の前期の映画を観ているようで、登場人物のイメージが、そのときの俳優たちに重なってくる。かつての東京。氾濫するルビ。それはともかくとして、コスチュームがいまひとつワカラナイので、ネットのフリマで『服飾事典』を購入した。ただでさへ装束オンチなのに、何を着て男女が登場しているのかが、ワカラナイと、キチンと書き込まれた文章の味が半減してしまう。とはいえ、久生十蘭など読んだら、もう小説は書けなくなるだろうなあという予感は裏切られて、こういうふうのなら私にも書けそうだなという見通し(パースペクティブ)のようなものが沸ふつと過っていき、勇気が出る。『金狼』は戯曲の作法を活かしたもので、余計にそんな気がしたのだろう。同じ出版元の国書刊行会からはこの下旬に『演劇の教科書』という訳書が出版される予定になっている。3780円という高価な本だが、割り勘でビール一杯に支払ってる額と差ほどカワラナイとおもえばたいした値ではナイ。タイトルのジケイはスラング。フランス語かと思えばスラングからオキナンチューのコトバまでルビになってるから久生十蘭の世界はたしかに動画である。

2009年3月13日 (金)

春の名のみの

旧暦ではまだ二月だ。寒いのはアタリマエだ。きょうも冷たい雨が午後から降り出して、泳ぎにいこうかという気分を屈させてしまった。もうすぐ彼岸の入りだというのにまだ風が寒そうに鳴いている。おっつけやることなしの身上にはありがたく、次々と続けて読んでいるマンガが書店の単行本のコーナーに積まれた。『プルートウ』は第7巻にして、浦沢直樹は何が面白くてこの話を描いているのかワカラナクなってきた。いままで何のためにか執拗に、その姿を現すのを避けさせていたプルートウが銅鑼の音ひとつで鍬形虫のようにポンと出てきてしまったのは、プロットとしては手抜きではないのかと洒落にもならない。で、今度は同様にボラーに重点が移された。同じことの繰り返しである。何の迫力もナイ(作者がわはそうは思ってナイのだろうけど)エプシロンとの戦い。エプシロンのキャラがこれまた失笑ものとしか思えない。子供を出すな。ましてや孤児。いったい了見が狭いとはまさにこのことだ。『あずみ』が48巻で一応の幕。ともかく強すぎる主人公であるのだから、必ずあっさり勝つことはワカッテいるので、その敵方との戦いをこちらは周到に準備している。そのことによってよくぞまあ、マンネリを切り抜けたと思う。敵方のキャラクターを描き込んだ労の成果だと思う。もう何年ものあいだ、推薦人として手塚治虫賞に推薦を繰り返してきたが、こっちは労、報われずだった。あだち充『クロスゲーム』は新刊を読む度に、主人公の樹多村光(きたむらこう)の名は、私から拝借してんじゃないかと、独り善がりの憶測。こちらはやはり野球というイチバンのグラウンドで、余裕綽々の展開である。ただ、その余裕がやや退屈に変じてしまっているのは否めない。2巻までの緊張感をどうにかとりもどして頂きたいものである。かわぐちかいじ『ジバング』は雑誌のほうは知らないからどうなっているのか39巻めまでは不明だが、私は原爆は爆発させるべきだと、で、どうすんだ、のほうが面白い気がすんだけど。沙村広明『無限の住人』はちょっともたつきすぎだろう。主人公の不死を暴くあたりのグロテスクから株価は下がっていると思える。つまり、そんなことに(ものに)読者は興味なんかなかったんじゃないのか。・・・さてまた呆然と夜がくる。

2009年3月10日 (火)

演技論メモ・前回のテーセー

ソクラテスがギリシャの哲人であることは間違いないが、プラトンの弟子はアリストテレスである。この間違いは実は二度目。なんで間違うかについては、要するにちょっとした勘違い程度のものなのだが、なんでちょっとした勘違いを二度もしてしまうのかについていえば、どちらでもどうでもいいからだったとしかいいようがナイ。私の本意は池田晴彦さんの論じる、固有名と指示対象の関係について異論を差し挟みたいだけなのだ。氏の論旨は簡単に結論をいうと「固有名の大半は指示対象など持たない」である。「アリストテレスという固有名は私にとって如何なる指示対象も持たない名辞である」何故ならば、アリストテレスを知っているひとが直示してくれない限り、アリストテレスという人名に対する知識はあっても、指示対象を識知は出来ない。それは位相として『罪と罰』のラスコリーニコフと同様だ、というんだけど、ほんとにそうかな、と疑ってるのである。(出典は『科学教の迷信』洋泉社)で、端的に、それ認めると、ソクラテスを演じる役者が舞台に登場しても、氏はそれをソクラテスと直示してもらわない限り、ソクラテスだと認めないことになる。つうことで、もちろん役者が演じているのだからソクラテス本人であるワケはナイのはアタリマエなのだけれど、たとえば、その役者が(脚本どおりに)芝居の途中から「みなさん、間違っておりました。私はソクラテスではなく、アリストテレスだったのです」と役どころを変化させたとしたら、なにをいってんだ、けっきょくお前は役者の三太郎じゃないか、ということをいうような観客がいるのか、いるワケナイじゃん、と、こう申して述べているのである。そんな客はいるなら落語の中だけだ。つまり私たちはソクラテスやアリストテレスやラスコリーニコフの実体を知らなくとも(識知出来なくとも)演じている者をソクラテスやアリストテレスやラスコリーニコフとして観ることは出来るし、それは、氏のいうように信念や直示可否の問題ではない。たとえ、ソクラテスが背広を着て登場しても、ソクラテスを演じている以上はその人物は舞台の上ではソクラテスである。そうして、観客がそれをソクラテスやアリストテレスやラスコリーニコフと認めるのは、両者の観念に同一性が含まれるからでもナイ。また、お約束といったものでもナイ。氏が表現(『罪と罰』は小説である)と日常を同じ土俵の上で語っているのが間違いだといっているのでもナイ。固有物、個体、というものを識知する場合、実体(指示対象)そのものなど問題ではなく、すでに他者的にも自己的にもそれは表現されたものに過ぎないということがいいたいのである。自然物であろうが人工の個物であろうが、コトバであろうが、表出=識知した瞬間、それは表現された物である。そこんところの氏との考え方の相違がいいたかっただけだ。

演技論メモ・ソクラテスを演ずるとは

池田晴彦さんの本を引っ張りだして(何故引っ張りだしたかというと、米原万里さんの『打ちのめされるようなすごい本』を読んでたら氏の本のことが書かれていたので)妄想に耽っていた。氏は「同一性」というコトバが好きなんだなあ。いや揶揄しているのではなく、氏の本は生まれて損した分の怨嗟がユーモアに転じた構造科学で面白いんですよ。私と考え方は違うけど、へその曲がり方が似てるんでしょ、たぶん。で、氏の構造主義科学でいくと、困ったことにソクラテスを芝居で役者が演じるということが不可能になってしまうのだ。というか、どんな役者がどんなふうに演じても、それはソクラテスではナイのである。何故ならソクラテスなんて「知ってるけど知らんもん」ね。知ってるけど知らんひとを役者が演じてそれを観客が観て、ソクラテスだなと認知(池田さんふうにいうと錯覚してしまう)には、演者と観客の主観にソクラテスというひとはこんなんだったろうという同一性の規則が働かなくてはならない。たとえ働いても、それが正しいかどうかの保証はナイということになる。しかし私の表現論(つうか、おでにいわせると)そんなものは微塵も必要ナイのだ。たとえば演者がソクラテスではなく、織田満作を演じるとしよう。織田満作というのは戯曲の作者がかってに創った人物である。もっと極端に「男1」でもいい。この場合、演者と観客のあいだには、織田満作や「男1」の同一性の了解などあるワケがナイ。ソクラテスも同じことである。ギリシャの哲学者でプラトンの弟子、という同一性も必要ナイ。何故なら、舞台のソクラテスは、〔表現〕された人物(いいかえると、イメージを具現化した人物)であればいいからだ。演者が不安なら、「私はソクラテスだ」というせりふをひとこといわせればイイ。池田主義になくて私の主義にあるものは〔表現〕という営為である。と、まあ、やっとそこまで氏の本を読んで、いつも腑に落ちないものが何なのかワカッタということですわ。客観というものは存在するものではナイ。それは生ずるように錯覚するものである。その辺りは氏と似たような見解なのだが、氏はそれを「現象」といい、私は〔表現〕と認識している違いがあるだけだ。だが、この違いは、風通しの風速にするとずいぶんの差があるように思う。氏にとって外部世界は独我的「現象」だが、私にとっては〔表現〕であるに過ぎないとしてもだ。曰く、表現は如何なるソクラテスも舞台に演じ立たせてみせる。(無論、評価はべつものよ) 

2009年3月 9日 (月)

モンタージュ

先週の『必殺2009』。老父が殺された息子の現場に置かれた仮の墓石のところで、懐から息子の生まれたときにとった手形を出す。アングルは背中越しに手形からさらに迫って手形の紙片。せりふはあるが、なくてもここは充分心中がワカル。逆にせりふは不要と思えるが、それは、視聴者へのサービスと、演者への気遣いだ。ここで老父も敵方に殺されないと話にならない。それくらいは同業者として先がワカル。だから、殺され方のプロットが問題になる。囲まれるのか、背中から斬られるのか、イチバンいいのは、手形の紙片に血飛沫だけが飛ぶという予想なんだが、これが、そのとおり。うん、イケテル。この一連のヌケとドウサを映像だけで表現するというのががエイゼンシュテインのいうモンタージュ理論である。映像そのものにおいてはエイゼンシュテインのモンタージュ論は間違ってはいないと思う。ただ、それを言語活動にまで拡張して理屈をいったところには誤謬がある。映像は映像、コトバはコトバなんだから。そこで、このモンタージュを演劇に出来るかと考えてみた。一応、演出においても戯曲においても可能である、というのが結論だが、可能であるというのと必要であるというのは違う。これは単に作劇術(ドラマツルギー)の問題。では演劇ではどう創ればいいのか。そんなことを考えて、べつにどうこうするワケではナイのだが、これは悲しい性か、業というところだろう。口を開けば愚痴になる、そんな毎日で、ついついブログともご無沙汰になる。やる気も気力も何もナイのだが、どうしても脳は芝居のことを考える。ブレヒトの錯誤にも触れようかと思ったが、ここで気力はキレる。

2009年3月 4日 (水)

映画情報『ザ・バンク』

「堕ちた巨象」というのがサブタイトルになっている。クライヴ・オーウェンとナオミ・ワッツ。クライヴ・オーウェンは『シューテム・アップ』のときのほうが断然良かったな。で、これは銀行がワルだという映画。いわゆる不正融資の話。途上国が武器を買うのに銭を貸したりする。ミサイルを買う段取りもする。宣伝によると、すっごくリアルなんだそうで、銀行はほんとうは悪いことをしているんだという映画。んなこといわれなくても、利息なしになったり、ちり山の手数料とったり、中小企業に貸し渋りやったり、てめえんところが潰れそうになったら、血税ぶんどったり、銀行がワルなことは充分大衆は承知している。で、派手な銃撃戦までやられると、リアルに創られているというこの作品のリアルさが突然ウソみたいになる。所詮、娯楽映画がリアルなワケナイじゃないか。これならまだ『必殺』のほうがリアル(テレビ映画として)ではないだろうか。演劇のリアリズムについて講義する気は今日はナイので、この辺で、チョン。(最後にチョンというのは木の入る音よ)

座して喰らう

短編小説の整理を一応すべて終えて、ほんとに何にもすることがなくなったので、かといって『演技論』にとりかかろうという気もなく。実をいえば、いやもう、みなさん勝手にやればそれでいいじゃないかという投げやり自棄な心情に堕して、何もおでがそんな偉そうなことを書いても始まらねえなと、内心バカバカしくも思えてきたので、ここが機会と久生十蘭の定本全集を開くことにして、『ノンシャラン道中記』内一作と、短編一作を読む。筆致からいって前者は懐かし拙作の『不・思・議・想・時・記』に似て、後者は整理したての短編を彷彿とさせるので、奇妙な共時的心境(シンクロニシティ)を持つに至れり、と。・・・今夜は休肝日ではナイけれど、マッサージのかったるさで、アルコールなど一滴も欲しくなく、ヒロナミンを服用して(効くかどうかワカンナイんだけどね)エクセルで確定申告と格闘中の奥さまを後ろから覗き込んでいた。3月は誕生月なので、気の早い私はガーゼパジャマを注文。中国製だと3000円程度なのだが、こないだシネマテークで中国の労働者の労働事情(環境)を描いた映画とお針子さんの女工哀歌のような映画の予告編を観ちゃってるもんだから、値段ははるが、愛知県製造元の縫製のしっかりしたものを選んだ。マスコミは派遣ギリに外人労働者の放り出しを盛んに同情こめた報道をしているが、日本人だって、いつだったか、狭い日本にゃ住み飽きた支那にゃ五億の民が待つ、てな歌に煽動されて満州いったもんな。銭儲けしにやってきて失敗は、いくつもある話だろう。それより研修生とかいわれてトヨタにきてひでえことされた外国の善人だっているんだからな。誰が悪人だかワカッテるのにスポンサーの都合でマスコミは突っ込みナシだもんな。莫迦と阿呆の絡み合いだぜ。

2009年3月 1日 (日)

本音ほんとね

何度でも書くが、まだバブリーな季節、企業メセナなんてのもあった頃、企業が文化創造芸術娯楽に対して投機(投資ではナイ)するてなことがあった時代。とはいえ演劇にはなかなかそのおこぼれがまわってこない。あるとき、演劇支援、助成についてのセミナー・イベントのようなものがあった。もちろん、芝居をやってる側としては、企業に銭を要求する。企業側からは広報担当の者が答弁した。「企業が演劇に対してお金をまわさないのは、簡単なことなんですよ。つまり、身も蓋もないことをいいますが、演劇はハズレが多いんです」で、音楽や舞踏、演劇はせいぜいファミリー・ミュージカルというあたりまでとなる。演劇にハズレが多いというのは、いや、そもそもハズレというのは、たとえば『劇王』の場合、たかが20分の舞台を観ても、つまらないものは退屈で苦痛で、ストレスになるのだ。今日なんか、わずか1時間10分の芝居を観て(というよりほんとをいうと劇場と客席の物理的な具合を観に行ったのだが)それでもストレスで血圧の下が急上昇した。こういう芝居の場合、演じているほうはやってて面白く、観客もそうに違いないと錯覚してしまっているのである。『孫子』に「彼を知り己れを知れば、百戦殆(あや)うからず」というのがあるが、その『孫子』がまたこうもいっている。「百戦百勝は善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」演劇にあてはめれば、前者が仕手の錯覚であり、後者が正しい(ハズレでナイ)仕手と観手との関係であることはいうまでもナイ。同様のことを唐十郎氏はこう表現している「懐手してひとを斬るがごとき演劇」

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